interview
screen prints

Declan Meehan & Justin Hughes

“A hope that one day some may understand”

Q1. こんにちはDeclan(デクラン)。あなたにこうしてインタビューができるのが夢のようです。Earworm (UK) やMotorway (JAPAN) からのリリースから十数年を経った今もScreen Prints(スクリーン・プリンツ)の楽曲は色褪せず、中でも「Same Time Next Year」は現在にいたるまでサマー・クラシックとして夏が来るたびに聴いています。当時のテープ・レコーディングがこうしてデクラン自身によりリマスターされ、再びリリースされる瞬間を目の当たりにすることを幸運に思っています。2000年にリリースされた『Perfect City (Twenty Songs 1998-2000)』(注1) から現在に至るまで長い歳月が経過しました。まずはあなたの近況について聴かせてください。リリース当時から現在に至るまでに生活や環境の変化、大きな出来事は何かありましたか?
(注1) Earwormレーベルからリリースされた20曲入りのScreen Prints唯一のCD作品。

Declan: 僕たちの楽曲を再びリリースすることに興味を持ってくれてありがとう。2001年にコンピレーション『Perfect City』をリリースした後、2、3曲といくつかのアイデアがあったのだけど、それらはCDとしてはリリースされませんでした。その頃Justin(ジャスティン)が8トラックのデジタル・レコーダーとミキサーを手に入れたので、4トラックのPortastudio(TASCAMのMTR)に録音した曲を新しいレコーダーに移して、また曲作りを再開していたんだ。僕らはマンチェスターから離れたところにあるイギリス東部の海の近くのコテージを借りて何曲かをレコーディングすることに決めました。

残念、というより単なる準備不足だったのだけど、録音機材を使いこなせず、2トラック以上を同時に録音するにはどうすればいいのか分かりませんでした。メイン・バッキングトラック(インストゥルメンタル)をライブで録音するのがそもそもの目的だったのに、取扱説明書を理解するのに数日間を費やす羽目になりました。そんなこんなで、海岸で散歩したり飲みに行ったりしてるうちにあっという間に一週間が過ぎてしまい、2トラックのみで完成できたのはたった2曲だけというむなしい結果に終わったんだ。数年前にハードディスクが壊れたとき過去に録音したもののほとんどをなくしてしまったのだけど、バッキングトラックの一つの修復に成功して、それを基にレコーディングを進めているものがあるので、近い将来それをリリースできればいいと思っているよ。
この週がアーティスト的にはあまり上手く行ったとは言えなかったので、Screen Printsの活動はますます稀なことになってしまったんだ。

2002年から2006年の間、キャリアや仕事のことで僕らは忙しくなって、メンバーのうち何人かは旅をして(ジャスティンはニュージランドで住んでいたりしました)、結婚して、家族ができて、Screen Printsとしてはジャスティンと僕がオファーを受けていたMagnetic Fieldsなどのカヴァーを数曲録音したくらいでした。

2007年にはデンマークのインディー・ポップ・フェスティバルから出演しないかというオファーを受けました。僕らがリハーサルや準備をする時間が無くてそれは実現することができなかったけど、Screen Printsとしてまたいくつかの曲を録音してみようという興味をかき立てるきっかけになったんだ。この頃に僕は最初のパソコンを買って、いくつかの録音ソフトも購入したよ。一旦その録音方法や必要な機材を把握したら、僕は2008年に機材を集めて自宅に小さなホームスタジオを完成させた。それからマンチェスターにジャスティンが来る度には新しい曲作りをスタートさせたよ。ジャスティンと録音できるのが3ヶ月に一度くらいで、アルバムに十分な曲を録音するにはとてもゆっくりな録音ペースになっているね。

Q2. 1997年にScreen Printsはマンチェスターで結成されました。メンバーのうちRichard(リチャード)はシェフィールド出身、Alun(アルン)はケント出身。現在二人はマンチェスターのレコードショップ、Vinyl Exchange (注2) の運営に携っているとのことでした。ソングライターの二人、あなたデクランとジャスティンはダービー出身で、(ダービーのある)ミッドランズにはヘビーメタル好きしかいなかったので、精神看護の勉強も兼ねて、同じような音楽を好きな仲間を探しマンチェスターに移ったということです。リチャードやアルンとはどういう風にして出会いましたか?当時のマンチェスターで、あなたたちScreen Printsはライブ活動を頻繁に行っていたのでしょうか?それともレコーディング・プロジェクトとして主に活動していましたか?
(注2) マンチェスターの中心部ノーザン・クォーターにある名レコードショップ。新譜・中古オールジャンルを扱う。地元マンチェスターのインディー・セレクトは愛情のある品揃え。

Declan: その通り。僕とジャスティンは看護の勉強のためにマンチェスターに移りました。僕らはダービーで1年かそれくらいデモを4トラックのPortastudioに録音しました。続きはマンチェスターでやろうって考えていたんだ。60'sのビーチ・ボーイズやフィル・スペクター、King Tubbyやジャマイカン・ダブ、Joe Meekなどや当時コンテンポラリーだったMy Bloody ValentineやStereolabのようなバンドを聴いていたので端正な曲を作ることより、強い実験性を持っていたと思う。

1996年の残りと1997年の大半はマンチェスターで学生らしい生活を送っていたのだけど、1997年の終わりくらいになってジャスティンと僕は音楽に真剣になって、同じようなサウンドを聴いてる仲間に出会うためにいくつかのショップにメンバー募集のポスターを置きました。正確に話し合ったかは覚えてないのだけど、7年前に学校を卒業してから僕らが吸収していた音楽を活かした、何かポップでメロディアスな音楽を作ろうとしていたんだ。すでに数年間をマンチェスターで過ごし、自分たちと音楽の趣味が合う人たちが出歩きそうな場所をだいたい把握していたので、めぼしい場所に自分達のポスターを貼らせてもらったよ。パブの上で行われていたインディー・ロックや60'sガレージ・パンク、ノーザン・ソウルがかかるDJイベントやギグやクラブで会ったことのある人が集うレコードショップとかね。それで僕らはVinyl Exchangeにもメンバー募集のポスターを置いたんだ。少しして、そこで働いていたリチャードが連絡をくれたんだ。初めてリチャードに会った時、どこかのクラブで見覚えがあっただけじゃなく、Vinyl ExchangeでThe Byrds(ザ・バーズ)のボックスセットを売った店員に間違いないと思ったんだ!これは良い予感がしたので、すぐにリチャードに僕らが4トラックに録音したテープを渡して、彼は僕らの曲を気に入ってくれたみたいで、ベーシストであるとか話してくれたんだ。すぐに僕らは大体の日曜日にマンチェスターの病院の一つにある看護宿舎のジャスティンの部屋でジャスティンをドラムに、リチャードをベースに、僕がギターをプレイして新しい曲のアイデアを4トラックのPortastudioに録音していったんだ。そのあと、リチャードと一緒にVinyl Exchangeで働き、マンチェスターの良いライブのプロモーションをしていたアルンにも出会ったんだ。

僕らはライブをしませんでした ─ その頃、Belle And Sebastianは滅多にライブをしないのに、ミステリアスな存在として上手く活動しているように思えたんだ。彼らのように質の高い楽曲のレコーディングに重点的に取り組むことで(当時は「デモ・ヴァージョン」の発想がなく、ファイナル・ヴァージョンのみを録音していました)、マンチェスター周辺で成功のあてもなくライブを続けるより、レーベルの関心を引くことを目標に活動していたんだ。

Portastudioの音源を聴き返してみると、テープ・メディアのため、あきらかにLo-Fiでザラザラとした質感を持っているね。だけど、新しいリマスター音源は、僕らが頭の中で元々イメージしていた音に近いものになったのではないかと思う。何年か前に、Arthur Russellの『First Thought, Best Thought』というアルバムがリリースされて、そのタイトルを聞いた時に、Screen Printsが当時音楽に対して取り組んでいた姿勢に近い意味を持っていると感じたんだ。もちろんジャズのような即興はなかったけど、レコーディングはいつも気の向くままのリラックスした雰囲気で、細かい点にはあまりこだわらずにどんどん先に進む感じでやっていました。次の曲に進むときもあれば、1曲終わったらパブに行くときもある、という感じだったよ。

Q3. 当時あなたたちの作品は日本ではTeenage FanclubやFelt、The Clientele、The Zombiesなどとレコードショップでは比較されてレコードショップの壁に並んでいたことを記憶しています。コレクション・アルバム『Perfect City (Twenty Songs 1998-2000)』ではThe Band「Christmas Must Be Tonight」のカヴァーもしていましたね。「Autumnal Playing Fields」はThe Zombies『Odessey & Oracle』のような儚げなハーモニーが印象的ですが、後半の歪んだギター・ソロが入ってくるような静と動が同居した展開はScreen Printsのオリジナリティだと思います。『Perfect City (Twenty Songs 1998-2000)』のレコーディングの頃に影響を受けていたアーティストがあれば教えてください。

Declan: The Zombiesの名前を挙げてくれてありがとう。『Odessey & Oracle』は僕とジャスティンがScreen Printsを始める何年か前から影響を与えてくれたアルバムだったよ。あなたが挙げてくれたバンドは僕たちに大きい影響を与えてくれたよ。特に僕たちはFeltとTeenage Fanclubの大ファンだったね。The Clienteleは影響というよりも同時代のバンドだったけど、確かに彼らのサウンド、レコードは好きな音だったね。1997年~2000年の4トラック録音の頃を振り返ると、沢山の音楽を聴いていて、個人的にもジャスティンと話をしたりして、心に残っているものは次のような感じかな。

たくさんの60'sガール・グループやフィル・スペクターやBrill Building Sound(特にGoffin & Kingの楽曲)、沢山のノーザン・ソウルの7インチ、Kentの60'sコンピレーション、サンシャイン・ポップ(特にカート・ベッチャーのThe MillenniumやSagittariusがお気に入り。パブのセッションの後にそれらは沢山流れました)。The Byrds『Notorious Byrd Brothers』、 Galaxie 500、The Band『Last Waltz Concert Film(パブ・セッションの後に流れるもう一つのお気に入り!)』、Shack『Waterpistol』、Rubbleのコンピレーション収録のUKサイケ・ポップ、Honeybusのようなレイト60'sのUKバンド。Yo La Tengo 『Painful』『Electr-O-Pura』 、Feltの全アルバムとシングル、Todd Rundgren『Something Anything』 『Runt. The Ballad of…』、 Belle And Sebastian『Slow Graffiti』、Badfinger『Wish You Were Here』、Teenage Fanclub『Songs From Northern Britain』 、Nick Drake『Bryter Later』 、Kenickie『I Would Fix You』、The Pastels 『Illumination(今もお気に入りのアルバムの一つ)』など…。振り返った時に、これらがすぐに脳裏によぎる作品。過去7年で聴いていたオールディーズや現代的な音楽を沢山聴いていて、それらの音楽がインスピレーションになってScreen Printsの音を形成していったんだと思う。

 

Q4. デクランとジャスティンの二人がソングライターですが、どのようなプロセスで楽曲を完成させますか?また、どちらがメイン・ヴォーカルを担当しているのでしょう?また相方であるジャスティンについて少し教えてください。シングルカットもされた、切ない名曲「Her Name I Don't Remember」は彼の作詞・作曲によるものですね。彼とは幼馴染みだったのでしょうか?

Declan: 14歳の頃にジャスティンと学校で出会ったんだ。僕らは音楽やアートの情熱を通じて繋がったのを覚えています。90年代のはじめダービーで僕らはいくつかのバンドで一緒にいました。でも僕らがSonic YouthやDinosaur Jr.が好きだったので、それらは若くてノイジーなギター・バンドでした。

1995年頃、ジャスティンがPortastudioを手に入れて、僕らは60'sガレージやサイケを数年間前から聴いていたのと、クラウトロックや当時90年代の他のUKのほとんどのバンドよりも魅力的な音を鳴らしていたThe PastelsやStereolabがやっていたようなエレクトロ・ミュージックに強い興味を持つようになりました。

僕とジャスティンでは、作曲手法がまったく違うんだ。以前はジャスティンが4トラックのポータスタジオを使ってコードや主旋律をほぼ完成させたものに、僕が新しいアレンジや旋律を加えて再レコーディングしていました。あとこれは今もそうですが、ジャスティンがソロボーカルの旋律をディクタフォンに録音して、僕が曲を付けて、バッキングトラックのレコーディングの際に最終的なアレンジや調整を加える方法もよく使っていたよ。この方法で作曲するとメロディーが強調されて、コードやベース音でのアレンジが可能になるため、洗練されたより魅力的なポップソングを作れる気がするんだ。僕の作曲手法はジャスティンとは逆で、まずコードパターンを作ったあと、詩やコーラスを加え、そこにメロディーを付けるという方法です。唯一の例外は「Autumnal Playing Fields」で、この曲に関してはメロディーを基にリフやモチーフを加えていったのを覚えているね。

曲をメインで書いたほうがヴォーカルをとっていたけど、時にはリードヴォーカルを共にしたものもあります。未発表曲の「Willow Kiss」がそのケースだね。二人が持っていた2曲のアイデアを一つにしました。そう「Her Name I Don't Remember」はジャスティンの書いた曲。ここからは少しジャスティンに話をしてもらおうかな。

Justin: 改めて、僕たちの作品に興味を持ってくれてありがとう。ダービー出身の男二人がマンチェスターのベッドルームやバスルームで作った音楽がたくさんの人の心を捉えていることは今でも驚きですが、今こうして年をとって振り返ってみると、レコーディングにしても、マンチェスター市内でのバス移動中に浮かんできた音楽にしても、そこにはいつも暖かさと独特の雰囲気があった気がしています。「Her Name I Don't Remember」は著名DJだった故ジョン・ピールに二度流され、僕たちのキャリアのハイライトです。だから、どんなに僕たちのレコードやCDがバーゲン・ボックスで売られたとしても、あの8分間の栄光やあの偉大なDJが流した素晴らしい音楽に包まれて過ごしたたくさんの夜の思い出は、誰からも奪われることはないんだ。

この曲はトラッフォードにある僕の部屋で偶然に書かれました。Mazzy StarかBig Starの3rdアルバム(リチャードが聴いた時にそのアルバムに似てると指摘しました)のような大きいリバーブとスライド・ギターのサウンドをイメージしていたんだ。僕は50's~60'sのテープ・エコーやトレモロに夢中だったので、最初に4トラック録音したのはThe Everly Brothersの「All I have To Do Is Dream」だったんだ。僕が古いアンプを手に入れ、トレモロのセッティングで殆どのギター・コードを覚えたので、そんなサウンドが僕のルーツにありました。調子はずれのスライド・ギターは単に知識不足によるものでしたが、妙に魅力的だったのでそのまま残すことにしたんだ。今回収録されることになる未発表曲の「Cemetery Song」のオーバーダブでも似たようなことをしたと思います。

Q5. アルバムのクレジットにレコーディング場所に、Trafford General Hospitalと記載がありますが、それはあなたたちが医学をその病院で学んでいたからだと推測しますが、実際に病院で録音は行われたのでしょうか?また複数のメンバーが『Perfect City』の録音に参加していたようですが、何かエピソードがあれば教えてください。

Declan: そう、1997年~2000年の間に録音された楽曲の95%はジャスティンが住んでいた病院で録音されました。僕もまたジャスティンとは反対側の別の病院の看護宿舎に住んでいたのだけど、彼の住んでいた部屋は僕の部屋よりもはるかに広かったので、ジャスティンの部屋のあるトラフォード総合病院を行き来したんだ。ジャスティンのドラム・セットやオルガンも彼の部屋に置いていたので、殆どの曲をジャスティンの部屋で録音したよ。また風変わりな音を録音するために看護宿舎の別の場所を使ったりもしました。

僕らは二つのアナログ・リバーブ・ユニットを持っていました、それは本当に良い音で、出来る限り沢山のリバーブ効果を求めて、大きいタイルばりのバスルームや看護宿舎の待合室などで録音しました。ドラム、パーカッション、ヴォーカル、ギターなど何から何までバスルームで録音したんだよ。

Justin: ストリング・パートのほとんどは、寮のバスルームでデクランとレコーディングしたものだよ。音大でクラシックを学ぶ二人のミュージシャンに演奏してもらうメロディーを、デクランがギターで拾って録音していました。音大のカフェで見ず知らずの学生に声をかけるのには勇気がいったけど、パブまでのドライブとビール2、3杯で演奏してもらうことができたんだ。「Evening Feel」で私とデクランとリチャードは病院の吹き抜けの階段でドラム、タンバリン、ハンドクラップを叩いていました。時々通る医師にびくびくしながら…ある日曜のセッションで怒った医師が僕らが作る騒音について告げるために、2階から駆け上がってきたのを覚えています。

そこでデクランは、自分のヴォーカル・パートを僕のシャツやズボンが詰まったクローゼットの中で録音するという、おかしなアイデアを思いつきました。僕とリチャードは、このシド・バレットのような振る舞いに戸惑いを感じましたが、これもアーティストなるがゆえということで、なんとか平静を装うことができました。「Inspirational」は、バンドメンバーのほかに手拍子担当の看護士5人くらいが小さなベッドルームに集まってレコーディングしたものですが、ヘッドフォンもモニターもない中、全員のタイミングを合わせられたことは奇跡といえるね。たくさんの若い研修看護士が暮らす寮では、こうした観客が訪れることがしばしばあったので、僕たちはそれをうまく利用していたわけです。ピアノのパートは、精神病棟のアクティビティールームにあった古いアップライト・ピアノを借りて録音しました(当時このピアノは夕方以降使われていませんでした)。レコーディングが始まるとすぐに患者が集まってきて、ビリヤードや卓球をやらせろといわんばかりにドアをバンバンとたたき始めたものでした。

僕らは看護宿舎にあるカップボードなど何でもパーカッションがわりに使いました。実際新しい録音でもまだ同じようにしています。Unrest『Imperial F.F.R.R.』での実験的なサウンドに気付いてから、そんな風変わりな録音を試そうとしていました。確かデクランは、モータウンのレコードかビージーズの「You Win Again」か何かに足踏みが収録されてるという話が好きで、よく話していました。当時は以前にThe Bee Geesが住んでいたチョールトンのケッペル通りのすぐ近くに住んでいたし、彼らのファースト・アルバムはバンドメンバー全員のお気に入りだったので、その影響もあったかもしれません。

Declan: レコーディングの手伝いをしてくれる友人も何人かいたんだけど、だいたいの人が弾ける楽器は自分たちでも演奏できたし、あとはパーカッションを振るくらいの手伝いしか期待できませんでした。いくつかの曲にストリングスとブラスのパートを書いたのだけど、誰もそのような楽器が弾ける人を知らなかったんだ。それでマンチェスター市内の音大のキャンパス内でぶらぶらしながら必要な楽器らしきケースを持っている学生に声をかけ、レコーディングに参加してくれないか頼んだんだ。住所もレコーディング場所も病院なんて、さぞ奇妙に聞こえたことだろうね。

どんな楽器を入れたかったかに関して言うと、ブリットポップ全盛の頃はみんなが派手なブラスで装飾された音にしようとしていたんだ。 僕らはオーケストラやビッグなストリング・サウンドにはしたくなかったので、チェロとヴァイオリンを一緒に演奏するシンプルさを求めました。ブラスに関しても、ノーザン・イングランドのブラスバンドのような温かくてメロウなサウンドにしたくて、トランペットやサックスではなくてフリューゲルホーンやチューバを演奏できる人を選んだんだ。

Q6. 最近になってQueen Nymphetからリリースされた「Same Time Next Year」の限定150枚のレースカット7インチ(ポリカーボネートを使用したクリア盤)を手にいれました。このレコードにはTrack & Fieldから2000年にリリースされた「Same Time Next Year」の別ヴァージョン(?)が収録されています。このレースカット7インチがTrack & Field (注3) から再リリースされた「Same Time Next Year」の原型にあたり、Screen Prints最初の頃の録音だと思いますが、Queen Nymphet、Track & Fieldでの「Same Time Next Year」のリリースからEarwormレーベルとの契約までの経緯を教えてください。
(注3) Of MontrealやLadybug Transistor、The Radio Dept.などもリリースしていたUKレーベル。

Declan:  「Same Time Next Year」が違うヴァージョンだと思うのはとても興味深いです。でもそれが違うものだったとは思い出せないけど。多分、プレスされた素材の違いや、プレスのクオリティの違いが、ヴァージョンが違うように聴こえさせているのかもしれないね。The Queen NymphetのリリースはVinyl Exchangeに来たデイヴ・スキナーというレーベルの男が、僕らのテープをお店のスピーカーで聴いたのがリリースのきっかけです。彼は限定のレースカット・シングルをリリースして、それは見た目(透き通ったクリア盤)は素晴らしかったのですが、音質は弱かったです。どういう訳か、僕らのテープはロンドンのTrack & Fieldに届き、彼らは 「Same Time Next Year」の再リリースに興味を示しました。彼らはその曲がすごく気に入っていて、彼らの美学と合うと思ったので、再リリースすることにしました。私たちはそれが僕らの選んだアートワークで、より多くの枚数が良い音質のヴィニールにプレスされる機会を歓迎したよ。

私たちはEarwormのDominicとは契約書を交わしませんでしたが、彼はQueen Nymphetのデイヴと友達で、僕らのテープを聴いた彼は「Evening Feel」を気に入って、コンピレーションに収録しました。その後、Earwormはあと二つのレコード(『Her Name I Don't Remmber』『Noises From The Darkroom』)と、シングルや未発表曲を収録した僕たちのコンピレーションをリリースしました。それが『Perfect City』だったんだ。

 

Q7. 今回初めて収録される未発表曲3曲について少しコメントを頂けるでしょうか?

“Willow Kiss”

Justin: 「Her Name I Don't Remember」と同じように、この曲はシンプルなギターリフがベースになっているんだけど、デクランがDusty SpringfieldとPet Shop Boysの共演作の大ファンであったことも少なからず影響しているね。歌詞は、僕が子どもの頃にネコヤナギの木のそばで遊んでいて失明しかけた出来事がメインで、そのせいで大好きだった『女刑事キャグニー&レイシー』を見られなかったという話だよ。あとは朝食の牛乳を切らしてるけど友達のそばにいるとかなんとかという半分意味のない話だけど、リチャードは子どもの頃トーストに黒コショウだけで生き延びた経験もあったので、その手の苦労話も加えてみたんだ。

Declan: 僕のパートは確かにクリエイション時代のFeltとDusty SpringfieldとPet Shop Boysの共演作に影響を受けているよ。Goffin & Kingの60年代初期~中期の曲を沢山聴いていて、後半のコーラスやアレンジの妙にはそれが反映されていることくらいしか思い出せないのだけど、”Moog Rogue+Fender Tube Reverb = Screen Prints”という僕らの90年サウンドを象徴しているね。

“Never Look Back Again”

Justin: これは果てることのない希望、苦悩、癒し、そして夢の国などないという自覚に関する歌です。太陽の日差しあふれるマイアミでの仕事に憧れてドラムを売ったのだけど、いざ現地に行ってみてやりたいことといえば、薄暗いイギリスに帰って、ドラムを買って、インディーズや60年代のガレージ・ミュージックを聞くことくらいだった、という経験に基づいています。歌詞はといえば、今よみがえってくる記憶のあいまいさを思い知らされるけど(記憶というのは続かない、というか書き換えられるものだね)、詩的には当時のままの方がよくまとまっているので、そのままにしておくことにしたんだ。僕がテープに吹き込んだ詩に、デクランが素晴らしいコードを付けて完成した曲です。特にストリングを聞くと、バスルームでの録音を思い出して感動します。デクランのアレンジは本当に素晴らしいと思うよ。

Declan: ストリング・パートは、ハーモニーを思いついたときにヴァオリンかチェロのソロを思い描きながら、マンドリンを使って作曲しました。確か別のCDでのリリース用に取っておくということで、『Perfect City』には入れなかったのだと思う。集まるたびにGalaxie 500風の3ピースのインストゥルメンタル・ヴァージョンをケルトチューンのエレキで演奏したりしていたので、確か再レコーディングも考えていたんだ。

“Cemetery Song”

Justin: この曲のデモを作ったのは、チョールトンの家の賃貸契約が終わりに近づいていたころで、近くの墓地で遠い昔に亡くなった恋人たちの墓石を読みながら過ごした初夏の午後を懐かしむ歌として作ったんだ。墓石の一つには「共に築いた思い出という最後の贈り物をいつくしむ」と刻まれていたんだ。デモをレコーディングしていたとき救急車のサイレンが聞こえてきて、「どこかの子どもが墓地の下敷きになった」のフレーズを思いついたんだ。ギターの裏側をパーカッション代わりに使ったのは単にキーボードの出すのが面倒だったからなのだけど、結果的にSimon Dupreeの「Kites」を思わせる雰囲気が醸し出されたので、最後にそよ風の音を加えてみました。当時の僕はギターの演奏技術も知識もまだまだだったので、アルンのテレキャスターでリード・ギターを演奏したのですが、結果的にThe Velvet UndergroundやPavementのような曲調が、特に後半部分で生み出されたと思っているよ。

Declan: 僕らは異なったサウンドと感覚を得るために、いつもの楽器を交換しました ─ リチャードがパーカッション(それとバックのセミアコ)、ジャスティンとアルンがギターを弾き、僕はベースを弾きました。それを意図的に行ったかどうかは覚えていませんが、おそらくビッグ・スターの3rdアルバムの影響を受けていたのだと思う。

Q8. 今回のリマスター復刻にあたって、再収録される楽曲を改めて聴いてみて、どのように感じますか?恋愛についての歌詞が多いように思われますが、当時のほろ苦い思い出なども含まれていますか?

Declan: 長い間聴いていなかったので、楽しい経験だったね。リマスター作業は奥が深くて、いくつかのパートはオリジナル・リリースで隠されていたものを引き出すことができたと思ってるよ。

Justin: 当時の恋愛などの良かったこと、良くなかったことも思い出させるよ。だけど僕らはいつも楽観的だったし、愛おしく思い出すことが多いと思います。

Q9. あなたは今も、マンチェスターのチョールトン(Badly Drawn Boyが住んでいることでも知られる町)に住んでいるとのことです。ミッドランズから移り住んだマンチェスターはあなたにとって理想の都市(パーフェクト・シティー)でしょうか?またマンチェスターでお気に入りの場所を教えてください。

Declan: もう17年くらい住んで、チョールトンとマンチェスターが本当に好きだよ。パーフェクトとは言わないけど、今ではノース・イングランドで他に住みたい場所は思い当たらないね。いくつかのマンチェスターのエリアが好きなんだけど、チョールトンはパブやレストラン、いくつかのレコードショップ、それにいろんな出来事がよく行われていて僕のお気に入りの場所だね。

Q10. デクランとジャスティンは今もScreen Printsとして新曲を録音していて(!)、アルバムのミックスダウンが終わるとのことでした。本当に楽しみにしています。今も『Perfect City (Twenty Songs 1998-2000)』の頃のようなメロディの楽曲を作っているのでしょうか?サウンドは当時からは録音環境も進化し、ハイファイになったと思うのですが、Screen Printsの芯の部分に変化はないとファンは期待しても良いでしょうか?

Declan: 当時とは機材も違うので、違いは明らかだと思う。90年代後半に使っていたギターやアンプも決して悪いものではなかったけど、コンピューターを使った複数のトラックの多重録音などは、当時はありえなかったし。そうはいっても、僕たちにとってコンピューターは単なる録音機器でしかなく、当時よりハイファイな録音機材を使ってはいるけど、純粋なアナログ・サウンドへのこだわりを捨てたわけではないです。曲調自体は当時同様メロディ主体ですが、同時に当時とは異なるサウンドを加えたり新しいサウンドの処理方法を模索し続けることで、ギター、ベースのバンドにありがちな形式にはまりすぎないよう努力しているよ。実際ストリングを一切使わない曲も1曲作りました。また、最初に話した2001年の貸別荘でのレコーディングで録音したトラックには、『Perfect City』リリース当初の曲調がそのまま残っているんだ。

Justin: 僕が付け加えられることといえば、4トラック・カセットテープの時代にはありえなかった品質を、現在は実現できるようになったということくらいかな。デジタルの時代の暖かさは当時とは明らかに異なっているけど、新たなスタジオ設備や録音技術に当時の暖かさを加えることで、雰囲気のあるサウンドやグッド・ミュージックを作り出せていると思う。僕らが今吸収している音楽の幅は広がっていて、ファンは新しい曲でそれを確認できると思けど、当時のように、ミスが思いがけずよい結果を生んでいるかもしれません。

時の経過や集まる時間が減ったこともあって曲作りの方法は変わったかもしれません。そのためデクランが一人で沢山の録音をしなくてはいけなくなったと思います。しかし、僕らはお互い創作する過程や僕らが作るものが好きで、それがずっと大切なことであり続けています。

Q11. 最後になりましたが、Screent Printsのファンに向けて一言メッセージをください。ありがとうございました!

Declan: Fastcutからのリリースでリマスターされた古い楽曲と未発表曲を楽しんでくれることを願っています。ひょっとしたら、いつか僕らが日本のファンと会えて、最初のScreen Printsのショーをできれば最高だと思うよ。

- Interview & Translation by Naoki Morikawa (Fastcut Records) / Translation by Ayako Yokoyama-Nichols